ある日一通の手紙が届きました。
差出人は見ず知らずの方、84歳のご婦人。
私たち家族の新聞記事を読んで、新聞社に手紙を託してくださったのです。
その方にはダウン症の娘さんがおり、3年半程前に53歳で亡くなったそうです。
15枚の便箋にしたためられた、とても達筆な手書きの手紙には50年以上前のダウン症を取り巻く状況と、優生思想真っ只中で障がい児・者に否定的な社会の中で必死に育児をする母親の姿が書き連ねられていました。
当時と比べて現在の障がい児を育児する環境に、まさに隔世の感がある事に思わず筆を取らざるを得なくなったようでした。
ダウン症(染色体異常)自体がほとんど認知されておらず、我が子を取り上げた産科医に「顔付きが気に入らない」と言われ、ダウン症という診断に辿り着くまでに何軒も病院を回ったそうです。
社会のセイフティネットがほとんど整備されておらず、情報入手すら困難な中、ご両親の愛情と想像できない程の努力で娘さんは健やかに成長しました。
生まれてすぐに子どもの命を心配し、成長するにつれ就学の心配。そして社会生活への心配。
心配の内容こそ現在と同じですが、深刻さは比較にならないでしょう。
私たちには今、様々な選択肢がありどれを選ぶかで悩んだりしますが、当時は選択肢など無かったのです。
中学を卒業した娘さんの就労(居場所)を心配したお母様はなんとその市で初めての障害者施設(共同作業所)を3人の仲間と1人の職員で設立したのです。
お母様の手紙には当時の仲間達への感謝が溢れています。
娘さんが最後まで想いを馳せていたその施設は昨年40周年を迎え今なおその市の障がいを持つ方々の希望となっています。
そして様々なアプローチで障がいを持つ方々をサポートする事業所が6か所にもなるそうです。
50年前には無かったであろう「共生社会」「バリアフリー」様々な言葉でスペシャルニーズが認知されている現在があるのは、手紙のご婦人達のような先輩方が必死に開拓してくれた結果であることを私たちは忘れてはいけないと思うのです。
親より先に亡くなった娘さんは、決して親不孝ではないと思うのです。親亡き後の憂いと共に母親より少しだけ先に天国に帰っただけ。
お母様は娘さんの待つ天国に行くことが楽しみになったかもしれません。
私にはとても親孝行な娘さんに思えるのです。
手紙を書くことが大好きだった娘さんの愛用品だった可愛らしい封筒と便箋に我が家の娘にもお手紙をくださり、お母様の宝物であったであろう娘さんの作品(可愛い刺し子のハンカチ)まで同封されていました。
嬉しくて、嬉しくて、嬉しかったです。